偉人・敗北からの教訓

ドキュメンタリー/教養

偉人・敗北からの教訓 第103回「上杉景虎・謙信の後継者になり損ねた悲運の武将」

北条家から上杉家に養子に入り、上杉謙信の後継者候補となりながら、御館の乱に敗れ、自刃した上杉景虎の敗北を紐解く。景虎はなぜ、ライバル・上杉景勝に屈したのか?

8月16日 土曜 21:00 -21:55 BS11イレブン

偉人・敗北からの教訓 第103回「上杉景虎・謙信の後継者になり損ねた悲運の武将」

群雄割拠の戦国時代、関東甲信越の勢力争いに翻弄された上杉景虎の敗北から現代に通じる教訓を探る。1554年、相模の大名、北条氏康の子して生まれた三郎は幼くして箱根の早雲寺に預けられ、16歳の時、大叔父・北条幻庵の養子となる。しかし、ちょうどその頃、氏康が武田信玄に対抗すべく、上杉謙信と同盟を締結。この時、三郎が上杉家に養子に出され、名を景虎と改める。景虎は謙信の跡継ぎ候補として期待されていた。
しかし、跡継ぎ候補はもう一人いた。謙信の甥・上杉景勝である。1578年、謙信が急病により亡くなると、上杉家中を二分する内乱、御館の乱が勃発。この御家騒動は景虎の実家である北条氏をはじめ、周辺の有力大名を巻き込む、大規模な争乱に発展した。景虎は御館と呼ばれる屋敷を拠点に景勝と対峙するが、約10カ月後、景勝軍の猛攻に遭い、自刃へと追いやられてしまった。景虎はなぜ、景勝に屈してしまったのか?
景虎の死後、反景勝派の重臣たちはさらに1年以上も抵抗を続け、上杉家の内乱が完全に終息したのは1580年のことだった。越後を二分した争乱は一体、何をもたらしたのか?景虎が自刃した鮫ヶ尾城の近くにある勝福寺には、景虎の石像や供養塔が建っている。毎年4月29日に景虎の法要が営まれ、地元の人々は今も景虎の遺徳を偲んでいる。どうにもならない運命に翻弄され続けた景虎の人生が語りかけるものとは?
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。

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